2021年04月21日

筆を取れ。物を書け。情報を流通させろ!

現代は高度情報化社会である。インターネットである。眼の前のパソコンから、或いは、手元のスマートフォンからネットを介して検索すれば、大体の情報は得られる時代である。なんなら、「情報の飽食の時代」と言ってもいいだろう。

そんな時代にあって、次のような主張を展開する者も居る。曰く「低レベルな情報は、この世に必要ない」「その情報は既に巷に溢れているので、これ以上書いてはいけない」「高レベルな情報が書けないのであれば、アウトプットをするべきではない」……しかし、そんなのはウソっぱちである。たとえ拙くとも、どんどんとアウトプットをするべきだ。そんな主張を展開する奴は、自分が摂取する情報の取捨選択も出来ない、物を知らないクソザコナメクジなので、相手をする必要はない。

何故か。先ず、当たり前の事ではあるが、貴方には表現の自由が在る。日本国憲法で保証されてさえもいる。何人たりとも、表現の自由を侵害する事は出来ないのである。

次に注目すべきは、「最初から上手く出来る人間はいない」という事実である。皆、下手くそから成長して、上手くなっていく。これは情報のアウトプットについても同じだ。下手っぴはアウトプットするな?チラシの裏にでも書いてろ?それは、人の成長を否定し、ひいては将来生まれる筈だった高度な情報を抹殺しようという言説である。そう主張する者は、技術発展を拒む「人類の敵」との誹りを受けても仕方がない。

更に、情報は在れば在る程よいのである。此処で試しに、ちょっと大きめの本屋に行ってみて欲しい。技術書や解説書、入門書の類の棚を覗いてみよう。同じ事に関する書籍が何冊も在るだろう。なぜ何種類も在るのかは、中身を見比べてみれば分かる筈だ。そう、喩え同じ事について論じていても、その説明の仕方は皆異なる。書いた人間の数だけ、別の説明が生まれる。ある説明で理解できなかった物事でも、別の説明で理解できるようになるというのはザラだ。説明のパターンが多ければ多い程、物事を理解できる人間の数は増えるのだ。コピー――つまり「パクリ」――でない限り、情報量に「多すぎる」という事はありえないのだ。

さあ、恐るるな、筆を取れ。物を書け。情報を流通させろ!成長と発展は、その先にこそ存在する。

何人なりとも、表現の自由を侵害する事は出来ない
勿論、そうは言っても、誤情報を広めたり、誰かの尊厳や名誉を傷つけるものはNGである。此処で論じているのは情報の質と量に関してなので、これらについては取り扱わない。
ラベル:Information writing
posted by 天井冴太 at 21:48| Comment(0) | 日々雑感 | 更新情報をチェックする
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