2016年05月05日

「シリアスゲーム」よりも「シリアスをシステムに含めたカジュアルゲーム」の方が役に立つのかもしれない

夜中の地震で停電になって、取り敢えず暗闇の中を学校まで避難しようとしてた時に頭の中にあったイメージは「絶体絶命都市」でした。あのゲームの経験がなかったら、自転車用のライト外して胸元に下げて照明を固定したり、妻のバッグに後方用の赤点滅を括りつけたりはしなかった。

「絶体絶命都市」は不謹慎なゲームなんかじゃないと思う。むしろあのゲームで「日常が非日常に変わった体験」をしてたからこそ、いざ現実がそうなった時に冷静に対処するだけの余裕を持てたんじゃないかと思う。

「あー、シリアスゲームって奴ね」で流しそうになったが、どうも、「絶体絶命都市」は所謂シリアスゲームとは異なっている様に思える。

シリアスゲームは、それによって知識を得る事を主目的とする。だが、「絶体絶命都市」は、あくまでゲームを面白くする要素の一つとして、リアリティを利用しているように見える。「絶体絶命都市」自体はカジュアルゲームの範疇に思える。

シリアスゲームかどうかで何が違ってくるかというと、プレイヤー層が異なっているのではないかと思う。シリアスゲームの目的は、それによって何らかの知識を得る事であるというのは、ゲームの提供側もプレイヤー側も承知している筈だ。つまり、シリアスゲームのプレイヤーは、それが提供する情報を得ようという強い動機を持っている、限られた人間という事になる。

しかし、カジュアルゲームだとそうはならない。あくまで娯楽としてゲームを楽しもうとしている人間がプレイヤーとなる筈だ。気負う必要が無いので、カジュアルゲームがリーチ出来る人数は、シリアスゲームを超える。もし、カジュアルゲームでありながら、シリアスゲームが提供する知識と同等の物(今回の例で言えば、災害時に個人がとれる有効な対処法の知識)をプレイヤーにもたらす事が出来るのならば、それはとても素晴らしい事だ。特に、今回の例のような、「多くの人間が知っているべきだが、それを学ぶ機会が無い(学ぶチャンスは有っても、重要性が実感されにくく、結果的に学習されない)」というタイプの物事にとっては。

……なんて事を、最初に挙げたtogetterのまとめを読んで考えた。こういった、言わば「カジュアルゲームの革を被ったシリアスゲーム」が有効なのは、他にどんな物事に対してだろう。追求してみると面白いかもしれない。

……いやまぁ、実は「絶体絶命都市」シリーズやった事ないで書いてるんだけどね。

ラベル:game education serious
posted by 天井冴太 at 10:00| Comment(1) | TrackBack(0) | ゲーム的つれづれ | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
いろいろなことが題材としてゲーム化されているのですね。政治を題材にしたゲームはいかがでしょう?いろいろな立場があって面白そうです。
Posted by あさ at 2016年06月08日 11:17
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