2012年11月13日

僕は英語が出来ない

例えば、webでとある文書を発見したとする。非常に有益な技術文書だ。
それが英語だったとする。ITの世界において、文書が英語だなんて事はままある事だ。
表題の通り、僕は英語が出来ない。いや、多少は出来る。"Do you speek English?"と聞かれて"A little."と答えれる程度には。
なので、その拙い英語読解力や辞書や翻訳ツールを使って読む。
ところが、辞書――それが紙の本だろうとweb上の辞書だろうと――を引くのは手間だし、専門用語あふれる技術文書を翻訳ソフトに投げ込んで意味の判る日本語が得られる事は稀だ。
とはいえその文書は読みたい。なので渋々と膨大な時間と労力をかけて読む事になる。

さて、膨大な手間暇をかけて読んだその文書であるが、数日後には脳みそから綺麗サッパリ消え失せている事請け合いである。プログラマの間には、ソースコードにコメントを付与する事の大切さを示す言葉として、「数ヶ月後の自分は他人だと思え」(或いは「数日後」の場合もあるだろう)なんてものが在る。今書いたコードが何をやっているかなんて、数ヶ月後(或いは数日後)の自分は憶えていない、他人が書いたコードを読むに等しいという意味である。
プログラミング言語でさえそうなんだから、英語も何をか言わんやである。
さて数日前に読んだ文書にはなんと書いてあったろう? 思い出せない? 幸い件の文書の在処はハッキリしている。もう一度読めばいいのである。
……もう一度読めばいい? また膨大な手間暇をかけて翻訳して?

冗談だろう?

話変わって、件の文書を読む日本人は自分以外にも何人も居る。webの辺境に存在するこのblogでさえ、閲覧者が1人という事はないのだから。
仮に、その文書を100人の日本人が読み、それぞれ翻訳作業だけで平均1日かかるとしたら、単純計算で、日本全体で100日分もの時間が浪費される事になる。
しかも、先にあるように、一度読み直す度に1時間更に追加されていく。

冗談だろう?

単純な解決法は有る。その文書を翻訳し、それを何らかの皆が閲覧出来る媒体に残すのである。web上のスペースが妥当だろうか。

翻訳内容を残す事で後日参照した際の翻訳作業が要らなくなるし、みんなで閲覧出来る場所に公開すれば、複数人数が同じ翻訳作業を行う必要が無くなる。それで取り戻せるリソースはどれだけ膨大な量になる事か。

しかし実際にはこの方法を採る事は出来ない。翻訳権が立ちはだかる。

翻訳権・翻案権は、著作権法第二十七条に規定されている著作財産権です。第二十七条では「著作者は、その著作物を翻訳し、編曲し、若しくは変形し、又は脚色し、映画化し、その他翻案する権利を専有する」(『社団法人著作権情報センター』 http://www.cric.or.jp/db/article/a1.html#021より)と明記されています。反対に見ると、これらを著作者の許諾なしに行うと、著作権の侵害になるということです。

(翻訳権・翻案権って?-ネコでもわかる知的財産権)

過去、英文を翻訳した物をblogに投稿した事が有るが、実は公開するかどうか暫く迷った。署名に付随する請願文書が著作物の範疇になるのか?とか、文書の趣旨に合うので問題が在っても大事にはならないのではないかという考えから、言ってしまえば「確信犯」的に公開してしまったが。

翻訳権が保護される意義は理解出来る。
けれども例えば、web上で無償で公開されてる文章ぐらい良いじゃないかとも思うのである。特に技術関連文書、各種Tipsの紹介文書では。

真っ当にやろうと思ったら、著者に許可を求めるべきなのだろう。しかし、その返事が返ってくるのと、自分が汗水鼻水垂らしながらその英文を読み終わるのはどちらが早いというのか。時差の影響で、必要以上に時間がかかる事も往々にして有り得るのだし。

posted by 天井冴太 at 03:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 日々雑感 | 更新情報をチェックする
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