……と、常々考えている。
どうも昨今、分からない事に対して「分からない」と言う事が恥だとでも言う風潮が蔓延しているような気がする。
特に何らかの主張を行う時。
確かに、『分からない』点が在るというのは、何らかの主張を行うに当たって弱点となる。それを突かれたとしても、『それは知らなかった。調べてみる』と言えば良いだけの話なのである。本当は。変に意固地になって、根拠のない決めつけや罵倒を行ってしまっては、それは既に討論でもなんでもない。
大体、論を戦わせる事において、自らの、その時点での主張をなにがなんでも通す事が勝ちだという訳ではないだろう。そうであれば、討論という行為に意味はない。双方相手の言葉に耳を傾けず、相手を完膚無きまでにヤッツケル事だけを考えているのであれば、各々の主張は平行線を描くまま。無為に時間(と、体力)を浪費するだけなのだから。
むしろ『分からない』事が判明した事を喜ぶべきなのではないだろうか。自らの主張に弱点が発覚したと言う事は、それを潰す機会を得たと言う事でもある。分からない事を調べて、それでも自らの主張が正しいと思えるならばそれで良し、何らかの欠点が見つかれば、それをカバーする為に主張を微調整すれば良いだけなのだ。
討論における『勝ち』を敢えて定義するとするならば、論を戦わせた結果、問題を解決する最善の方法を導き出す事ではないだろうか。
とはいえ、そう考えている私自身、分からない点を指摘されたらムッとしてしまう事が多い、元来熱くなりやすい性格が災いしている。
そこで決めつけや罵倒に逃げず、グッと耐えて、『分からない』と勇気をもって言えるようになりたい。
『無知は罪だ』と言った人が居るが、そうではない。『無知と知りつつ、それを知ろうとしない事が罪』なのだ。
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直感エクスポータ, 以前から考えていたのですが、マスメディアは、「わからない」という表現を使うことを考慮してはどうかと思い...
- 言えば良いだけ
- 流石に一般常識を『知らん』というのはどうかと思うが。
- 最善の方法を導き出す事
- 勿論、許された時間の中で、であるが。